元々内向的な側面が強いからか、恐怖を感じることが多い。

恐怖は自分のコンフォートゾーン(安全領域)から出ようとする、あるいは出て行かされる時に生じる。たとえば転校するなんていったら、きっと誰でも新環境に対して恐怖や不安を覚える。逆に言えば、今まで自分になかったものに巡り合える可能性を秘めているといえる。転校先で親友になる人に会えるかもしれない。恐怖は変化の可能性があることを示してくれているのだ。

生存本能からすれば、変化というのは危険でしかない。なぜなら変化せずとも今まで生きてこられたのだから、わざわざ変化してまでリスクを負う必要性がないからだ。だから人間は変化しようとする時に恐怖を感じるし、何らかの言い訳をしてしまう。「準備ができたらやる」「明日からやる」と。

これは本能的な反応であるから仕方ないし、自分を責めることでもない。だからこそできる対策がある。それは脳が拒否反応を示さない範囲内での「小さな変化」から始めることだ。たとえば運動をしてダイエットしたいというならば、今日から1時間毎日走るなどと大きなことに踏み出すのではなく、一日1回腹筋をするなどといったように。何をバカなことをと思うかもしれないが、変化は更なる変化を欲するようになる。もっとできると思うようになるのだ。そしていずれは「結果的に」大きな変化になっている。

というのが今までの私の学んできたことであり、実際にその効果を体感してきたものである。これは間違いなく効果的な方法である。

ただ今日ふと思ったことがある。恐怖は変化の可能性を示している。でもその先の変化に憧れや夢がある場合、バンジージャンプのように「えいっ!」と恐怖しながら思い切って飛んでしまってもいいのではないかと。小さく変化させれば確実に変化する。でも変わらざるを得ない状況に自分を置けばきっと変われる。恐怖はあるけど変わっていける、憧れに近づくことができる。そういう方法・状況もあるのではないかと。

恐怖は当たり前だが恐ろしいものだ。できれば平穏無事な日々を送っていきたいと思うのも自然だ。でも恐怖の先に自分が望むものがあるならば、思い切って飛び込んでみたい。自分の可能性を見てみたい。恐怖の先にしか楽しさはない。毎日同じ定食屋に入っているのでは世界が広がらない。入ったことのないお店に入ってみたらいつもの定食屋より美味しいとわかるかもしれない。

そして変化することができるとわかれば、きっともっともっと変化・恐怖に対して積極的に飛び込んでいける。大きく変化していける。

恐怖はチャンスだ。怖いと思ったら笑おう。きっと楽しいことが待っている。
恐怖のない日々こそが最も恐ろしいものなのだ。

面白さ

2017年11月18日 日常
最近堀江さんの本を読んでます。

その中にこのようなことが書かれています。
「没頭とは、没頭させてくれるものが先にあるのではない。ひたすらに取り組むからこそ、それが没頭するものに変化する。そして没頭するには、自分で取り組み方を考えることが必要」

深いなぁと思いました。確かに今までハマったものというのは、最初見たときから必ずしも運命的なものを感じていたわけではありません。MTGも最初見たときよくわからんなっていう印象でした。

そして面白さ。自分が没頭する時というのは、明らかに自分で考えている時が多い。とにかく能動的であり行動的である。誰かの指示に従っているのとは正反対。

例えば、昔よくゲームの攻略本を見ながら新作のゲームをやっていた記憶があります。それはただ「ミスなく攻略したい。一切の要素を見逃したくない」という思いから。確かにその願いは達成されるけど、面白いかっていうと全然そんなことなかった。ただ「こなす」だけ。消化するだけ。

人の力を借りることも大事だけど、やっぱり基本は自分で考えること。前のめりになること。繰り返すことによって改善していくこと。多分そういうことが楽しさであり、結果的にはより完成に近いものになれるのではないかなと思います。
今日行きたいところを思いついたので、即断で行ってきました。とある湖です。

その際に決めたのは「電子機器を持っていかないこと」、「交通機関を利用しないこと」でした。理由は「自分ができないと思っていることに挑戦してみる」ため。

できないと思っていること。それは「見知らぬ人に積極的に話かける」こと。私はいわゆる「コミュ症」だと思っています。適当な会話内容も思いつかなければ、話しかけるにも話しかけられるにも大体頭が真っ白になる。会話を早く切り上げようとする(これ絶対コミュ症だ)。多分「何か面白いことを話さなきゃいけない」とか「相手に変に思われたらどうしよう」とかそういうことが色々と頭の中を駆け巡るのが原因だと思っています。そうすれば会話に集中できる訳もありません。

そしてそれに輪をかけるように困らせることがあります。それが吃音症です。「どもる」と言った方が通じやすいかもしれません。同じ言葉を繰り返してしまったり(たとえばマジックというのにも「ま、マジック」と言ってしまう)、言葉が出てこない(すっぱいと言いたいのに「すーーーーっぱい」と言ってしまう。伸ばしたいわけでもないのに伸ばしてしまう)。というように、とにかく喋るのが辛いのです。

幼い頃はかなり苦労しました。相手を気遣うなんていうものが幼い頃はないので、同級生にいじられるわけです。何度も笑われたりしました。その度に話すことが怖くなり、どんどん吃音症を隠すように生きるようになりました(喋らないということ)。もちろん友達がいなかったわけではありませんでした。サッカーをしていたので、言葉でなく通じ合えるものがあり、仮にどもったとしても誰も悪く言う友達はいなかったのです。それでも私は吃音症を克服することはできませんでした。

吃音症を治す方法を調べたこともありました。ところが現在吃音症が発生してしまう原因すら解明されておらず、どう治療すればいいのかもわからないそうです。吃音症の本を見つけたとき、僅かに希望を抱いたのですがその希望もすぐに打ち砕かれました。書店でがっくりした気持ちになったのを今でも覚えています。

矛盾するようですが、私は人と話をするのが好きです。それは吃音症だからかもしれません。普通に話して普通に笑いあえる。それが私にとっては夢のようであり、それを与えてくれる人にはこの上ない感謝を覚えるのです。普通にべらべら喋っている光景を見ると「いいなぁ」と今でも思います。(話すのが好きだからこそ吃音症が辛いともいえるかもしれません。

そしてつい先日「嫌われる勇気」を読みました。思ってもみなかったのですが、そこに吃音症の話題があったのです。そこで大きな気づきを得ることになりました。吃音症の人は自分の話し方だけに注意が言ってしまうからこそ、もっとどもってしまう。そしてそれを笑う一部の人だけに目を向けてしまう。そしてそれだけで自分はダメなのだと思ってしまう。と。はっと思わされました。ダメだったのは吃音症のせいじゃない。悪い側面だけ見て全部ダメだと思ってしまう、完璧思考。喋りの場面だけじゃない。どんな時でもそう思ってしまっていた自分の悪い癖が喋りの場面でも出ていただけだったのです。

良い側面にも目を向けてみる。サッカーの仲間が受け入れてくれたように、どれだけどもっても私を受け入れてくれる人がいるということ。彼らと笑いあえるということ。吃音症は「見た目だけで判断する人」を見つけるために与えられたのかもしれない。私を受け入れてくれる人を見つけるために授かったのかもしれない。

そして吃音症を受け入れる勇気。だからこうして書いてみました。今日書いてみる勇気が湧いたのは、出先で私を受け入れてくれる人に何度も巡り合ったからです。

電子機器を持たず、交通機関も使わないとなれば、頼りになるのは「人の親切」しかありません。道を教えてもらうという手段しかありえない。だから私は話すという「できない」ことに挑戦するしかないのです。そういう状況に自分を置いてみたかった。

最初に話しかけるのはとても勇気がいりました。やはり「変に思われないか」「どもったらどうしよう」などと考えてしまうのです。何度も話しかけようと思っては通り過ぎてしまう。そこでまずは話しやすそうな人から話かけるようにしました。それはおじいちゃん・おばあちゃん。おじいちゃんおばあちゃんだと自然に笑顔になるのは知っていたので、そこから攻めてみました。次は60代ぐらいの男性に。そして次は40代ぐらいの女性に。ここら辺から変化を感じました。やっぱり話すのは下手だし、言葉も詰まる。言いたいこともうまく言えない。でも訊けば道はちゃんと教えて下さる。話しかける恐怖は残るものの、勇気が振り絞ることに慣れていく自分に気付きました。

そして次に話しかけたのが運送会社の方。車のお掃除をされていたところでした。道を尋ねるととても親身に道を考えて下さり、果てには「車で近くまで連れて行ってやる」と言って下さったのです。この時自分が自分でないような感覚を覚えました。なぜ自分はこんなことができているんだろう。どうしてこんなに親切にして下さるのだろう。

車に乗せていただいている間、正直何を話せばいいのかわからず結局頭も真っ白になって、上手く喋れませんでした。人の親切にただただ感動していたのもあります。こんなことがあり得るんだと。

去り際にもその方は手を振って下さいました。多分この思い出は一生忘れないでしょう。あの方の顔も。勇気を振り絞って良かった。人に話しかけてよかった。その思いが溢れ出し、車から降りた後思わず小学生のように走り出してました。そして目の前には行きたかった湖が広がっていました。

別に吃音症だから親切にしてもらえることは絶対にないというわけではない。今はそう思います。受け入れてくれる人に目を向けること。そういった人たちを大切にし、恩返しをすること。ちゃんと伝えようとすること。そういった勇気を持ちたいと思っています。

やっぱり人と話せるって幸せだなと思いました。色んな人と話して、色んな人と笑いあいたい。そういう夢に向けてやっと一歩前に進めた気がします。

そしてみなさんにお願いがあります。吃音症の方を見かけても、どうか見守ってあげてください。辛いけど、どもってでも伝えようとしているのです。勇気を振り絞っているのです。みなさんとお話ししたいだけなのです。そのことを少しでも頭の片隅に置いて下さったらこの上ない幸せです。どうかよろしくお願いいたします。

ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。拙い文章でありますが、心から感謝を。

気づき

2017年10月25日 日常
レガシーをやってみて気づいたこと。

【良いところ】
・新しいフォーマットなので、新鮮であり学ぶことが多く、刺激も多い。つまり楽しい。同時に難しい。特にレガシーはムズいんじゃないかな。カード一枚一枚の扱いをちょっとミスるとやられる感じがする。やりがいと言える。

・つよいかーどがつかえる。

・レガシーに限ったことではないけど、新しいフォーマットに触れれば交友関係が広まる。

【予想外だったこと】
・デッキの種類こそ多いものの、使ってるカードは大体同じ。死儀礼とかウィルとか思案とか。大きな軸となるカードがあって、方向性を「どっちに少しずらすか」みたいな印象を受ける。思ってるよりカードの採択の幅はないのかもしれない。

・これは前もって考えられたことだったけど、メタがあまり変わらない。新しいデッキもほぼ生まれてこない。なので、よっぽどハマるデッキを見つけないとずーっとレガシーだけをやるっていうのはきついのかもしれない。

【今のところの結論】
・個人的に「交友関係が広まる」ことが最大のメリットであるし、事実そうだったと思っている。これはベリーグッドね。やって大正解だった。となると、一つのフォーマットに拘る(レガシーだけに拘る)のではなく、もっといろいろなフォーマットに挑戦してみたいなという意欲が湧いてきた。

・レガシーでは自分の好みにドンピシャのデッキがまだないので、とりあえず時折プレイしていければいいかなという思い。特にスタンのローテ時期とか。

・まだやってないフォーマットは、EDHなのでそれは視野にいれていきたい。やってる人多いしね。

◎結局のところ、楽しい!という感覚がすべてだと思い始めたので、楽しい!と思えるデッキ・フォーマットに拘っていきたいと思ってます。ある程度勝てないと面白くないし、でも好きなデッキが勝てるデッキとも限らない。それが難しいですね。色んなデッキを触って、自分になじむデッキを見つけるのが第一目標になりそうです。

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