この間吃音症の人を見かけました。別に確証があるわけではありません。
ただなんとなく「わかってしまう」のです。
明らかにコミュニケーションを避け、言葉を詰まらせ、言葉を繰り返し、なんとか言葉をひねり出す。一言目を聞いた瞬間に気付きました。
相手には失礼かもしれませんが私はちょっと嬉しかったのです。仲間を見つけたような気がして。本当は「吃音症なんですか?私もそうなんです。大変ですよね。頑張りましょうね!」と言いたかった。
でも本人を見る限り吃音症であることを明らかに受け入れられていないように見えたのです。だから私は我慢をしました。吃音症は自分がその事実にネガティブなイメージを持ってしまうことが症状を悪化させてしまうと言います。だから言わない方がいいだろうと思いました。
そしてその人を見ていたら自分を見ているような気持ちになりました。「あ、吃音症の人ってこんな風に見えるのか」と。確かに言葉は上手く出てないし、お世辞にも聞き取りやすいとは言えない。知らない人からしたら違和感でしかない。
でもこう思いました。「面と向かってコミュニケーションしてくれない方がよっぽど寂しい」と。別にどもってもいい。だから目を見て自分の意見を主張し、相手とコミュニケーションをとれば相手だって理解しようとするし、何より恥ずかしがって目をそらして何も言わないよりかは遥かに好印象になる。勿体ないなと思いました。
そして私は今日同僚に吃音症であることを伝えました。人生で初めてでした。伝えようと思ったのは相手も病気のことについて語ってくれたからです。それを聞いたとき私は理解しようと思いました。力になろうと思いました。変だとかそういうネガティブな感情は一切ありませんでした。多分相手は勇気がいることだったでしょう。理解してもらえるか不安だったかもしれません。でも実際には私は理解をしようとした。もしかしたら病気を深刻にしているのは自分なのかもしれない、その時私はそう思いました。
そして実際に私が吃音症を告白した時、相手は「え?全然気づきませんでした」とおっしゃっていました。自然であると。吃音症の症状は何段階かに分かれており、「ばれない」のは深刻であると言われています。なぜなら吃音を隠そうとして生きているから。向き合うことすらできていない故に、深刻であるのです。
そのことが頭にふっと浮かびました。あぁやっぱり深刻なんだと。でも誰かに吃音症を告白できたこと、そしてそれを伝えたことで今後の相手の理解につながること、自分が吃音症であるために苦手な仕事を変わってもらえること、そういったプラスの側面もありました。それが安心感を生みました。
別に吃音症だからと言って何もかもが終わるわけじゃない。それをカバーするだけの、余りある魅力があればいい。あなたが大切に思っている人はきっとあなたのことも大切に思ってくれている優しさに溢れているはずです。自分の魅力は相手の方がよっぽど詳しいと思っています。だから弱さを見せることは悪じゃない。
そして吃音症であることを今後はどんどん大切な人たちに伝えていきたいと思っています。私は大切な人と面と向かって心をリラックスして、ちゃんと話して笑いあいたい。だからこそ病気のことを伝えたい。
そしてそれを何倍にもして恩返ししたい。そうやって大切な人といつまでも大切に付き合っていけたらどんなに幸せだろうと思います。
正直まだ告白するには怖気づいています。怖いです。どんな反応をされるのか。告白している時もどもってしまったらどうしようと不安で胸がいっぱいになります。でも嫌われる勇気を持って生きていきたい。大切な人をもっともっと大切な人にしていきたい。そう思っています。
吃音症は辛いです。でもコミュニケーションをできる喜びを何よりも強くしてくれた味方でもあります。かなり嫌いだけど、かなり感謝してます。それが私の色になってくれた気さえするのです。
ただなんとなく「わかってしまう」のです。
明らかにコミュニケーションを避け、言葉を詰まらせ、言葉を繰り返し、なんとか言葉をひねり出す。一言目を聞いた瞬間に気付きました。
相手には失礼かもしれませんが私はちょっと嬉しかったのです。仲間を見つけたような気がして。本当は「吃音症なんですか?私もそうなんです。大変ですよね。頑張りましょうね!」と言いたかった。
でも本人を見る限り吃音症であることを明らかに受け入れられていないように見えたのです。だから私は我慢をしました。吃音症は自分がその事実にネガティブなイメージを持ってしまうことが症状を悪化させてしまうと言います。だから言わない方がいいだろうと思いました。
そしてその人を見ていたら自分を見ているような気持ちになりました。「あ、吃音症の人ってこんな風に見えるのか」と。確かに言葉は上手く出てないし、お世辞にも聞き取りやすいとは言えない。知らない人からしたら違和感でしかない。
でもこう思いました。「面と向かってコミュニケーションしてくれない方がよっぽど寂しい」と。別にどもってもいい。だから目を見て自分の意見を主張し、相手とコミュニケーションをとれば相手だって理解しようとするし、何より恥ずかしがって目をそらして何も言わないよりかは遥かに好印象になる。勿体ないなと思いました。
そして私は今日同僚に吃音症であることを伝えました。人生で初めてでした。伝えようと思ったのは相手も病気のことについて語ってくれたからです。それを聞いたとき私は理解しようと思いました。力になろうと思いました。変だとかそういうネガティブな感情は一切ありませんでした。多分相手は勇気がいることだったでしょう。理解してもらえるか不安だったかもしれません。でも実際には私は理解をしようとした。もしかしたら病気を深刻にしているのは自分なのかもしれない、その時私はそう思いました。
そして実際に私が吃音症を告白した時、相手は「え?全然気づきませんでした」とおっしゃっていました。自然であると。吃音症の症状は何段階かに分かれており、「ばれない」のは深刻であると言われています。なぜなら吃音を隠そうとして生きているから。向き合うことすらできていない故に、深刻であるのです。
そのことが頭にふっと浮かびました。あぁやっぱり深刻なんだと。でも誰かに吃音症を告白できたこと、そしてそれを伝えたことで今後の相手の理解につながること、自分が吃音症であるために苦手な仕事を変わってもらえること、そういったプラスの側面もありました。それが安心感を生みました。
別に吃音症だからと言って何もかもが終わるわけじゃない。それをカバーするだけの、余りある魅力があればいい。あなたが大切に思っている人はきっとあなたのことも大切に思ってくれている優しさに溢れているはずです。自分の魅力は相手の方がよっぽど詳しいと思っています。だから弱さを見せることは悪じゃない。
そして吃音症であることを今後はどんどん大切な人たちに伝えていきたいと思っています。私は大切な人と面と向かって心をリラックスして、ちゃんと話して笑いあいたい。だからこそ病気のことを伝えたい。
そしてそれを何倍にもして恩返ししたい。そうやって大切な人といつまでも大切に付き合っていけたらどんなに幸せだろうと思います。
正直まだ告白するには怖気づいています。怖いです。どんな反応をされるのか。告白している時もどもってしまったらどうしようと不安で胸がいっぱいになります。でも嫌われる勇気を持って生きていきたい。大切な人をもっともっと大切な人にしていきたい。そう思っています。
吃音症は辛いです。でもコミュニケーションをできる喜びを何よりも強くしてくれた味方でもあります。かなり嫌いだけど、かなり感謝してます。それが私の色になってくれた気さえするのです。
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