わ、私は上手く喋れない
2017年11月10日 日常 コメント (4)今日行きたいところを思いついたので、即断で行ってきました。とある湖です。
その際に決めたのは「電子機器を持っていかないこと」、「交通機関を利用しないこと」でした。理由は「自分ができないと思っていることに挑戦してみる」ため。
できないと思っていること。それは「見知らぬ人に積極的に話かける」こと。私はいわゆる「コミュ症」だと思っています。適当な会話内容も思いつかなければ、話しかけるにも話しかけられるにも大体頭が真っ白になる。会話を早く切り上げようとする(これ絶対コミュ症だ)。多分「何か面白いことを話さなきゃいけない」とか「相手に変に思われたらどうしよう」とかそういうことが色々と頭の中を駆け巡るのが原因だと思っています。そうすれば会話に集中できる訳もありません。
そしてそれに輪をかけるように困らせることがあります。それが吃音症です。「どもる」と言った方が通じやすいかもしれません。同じ言葉を繰り返してしまったり(たとえばマジックというのにも「ま、マジック」と言ってしまう)、言葉が出てこない(すっぱいと言いたいのに「すーーーーっぱい」と言ってしまう。伸ばしたいわけでもないのに伸ばしてしまう)。というように、とにかく喋るのが辛いのです。
幼い頃はかなり苦労しました。相手を気遣うなんていうものが幼い頃はないので、同級生にいじられるわけです。何度も笑われたりしました。その度に話すことが怖くなり、どんどん吃音症を隠すように生きるようになりました(喋らないということ)。もちろん友達がいなかったわけではありませんでした。サッカーをしていたので、言葉でなく通じ合えるものがあり、仮にどもったとしても誰も悪く言う友達はいなかったのです。それでも私は吃音症を克服することはできませんでした。
吃音症を治す方法を調べたこともありました。ところが現在吃音症が発生してしまう原因すら解明されておらず、どう治療すればいいのかもわからないそうです。吃音症の本を見つけたとき、僅かに希望を抱いたのですがその希望もすぐに打ち砕かれました。書店でがっくりした気持ちになったのを今でも覚えています。
矛盾するようですが、私は人と話をするのが好きです。それは吃音症だからかもしれません。普通に話して普通に笑いあえる。それが私にとっては夢のようであり、それを与えてくれる人にはこの上ない感謝を覚えるのです。普通にべらべら喋っている光景を見ると「いいなぁ」と今でも思います。(話すのが好きだからこそ吃音症が辛いともいえるかもしれません。
そしてつい先日「嫌われる勇気」を読みました。思ってもみなかったのですが、そこに吃音症の話題があったのです。そこで大きな気づきを得ることになりました。吃音症の人は自分の話し方だけに注意が言ってしまうからこそ、もっとどもってしまう。そしてそれを笑う一部の人だけに目を向けてしまう。そしてそれだけで自分はダメなのだと思ってしまう。と。はっと思わされました。ダメだったのは吃音症のせいじゃない。悪い側面だけ見て全部ダメだと思ってしまう、完璧思考。喋りの場面だけじゃない。どんな時でもそう思ってしまっていた自分の悪い癖が喋りの場面でも出ていただけだったのです。
良い側面にも目を向けてみる。サッカーの仲間が受け入れてくれたように、どれだけどもっても私を受け入れてくれる人がいるということ。彼らと笑いあえるということ。吃音症は「見た目だけで判断する人」を見つけるために与えられたのかもしれない。私を受け入れてくれる人を見つけるために授かったのかもしれない。
そして吃音症を受け入れる勇気。だからこうして書いてみました。今日書いてみる勇気が湧いたのは、出先で私を受け入れてくれる人に何度も巡り合ったからです。
電子機器を持たず、交通機関も使わないとなれば、頼りになるのは「人の親切」しかありません。道を教えてもらうという手段しかありえない。だから私は話すという「できない」ことに挑戦するしかないのです。そういう状況に自分を置いてみたかった。
最初に話しかけるのはとても勇気がいりました。やはり「変に思われないか」「どもったらどうしよう」などと考えてしまうのです。何度も話しかけようと思っては通り過ぎてしまう。そこでまずは話しやすそうな人から話かけるようにしました。それはおじいちゃん・おばあちゃん。おじいちゃんおばあちゃんだと自然に笑顔になるのは知っていたので、そこから攻めてみました。次は60代ぐらいの男性に。そして次は40代ぐらいの女性に。ここら辺から変化を感じました。やっぱり話すのは下手だし、言葉も詰まる。言いたいこともうまく言えない。でも訊けば道はちゃんと教えて下さる。話しかける恐怖は残るものの、勇気が振り絞ることに慣れていく自分に気付きました。
そして次に話しかけたのが運送会社の方。車のお掃除をされていたところでした。道を尋ねるととても親身に道を考えて下さり、果てには「車で近くまで連れて行ってやる」と言って下さったのです。この時自分が自分でないような感覚を覚えました。なぜ自分はこんなことができているんだろう。どうしてこんなに親切にして下さるのだろう。
車に乗せていただいている間、正直何を話せばいいのかわからず結局頭も真っ白になって、上手く喋れませんでした。人の親切にただただ感動していたのもあります。こんなことがあり得るんだと。
去り際にもその方は手を振って下さいました。多分この思い出は一生忘れないでしょう。あの方の顔も。勇気を振り絞って良かった。人に話しかけてよかった。その思いが溢れ出し、車から降りた後思わず小学生のように走り出してました。そして目の前には行きたかった湖が広がっていました。
別に吃音症だから親切にしてもらえることは絶対にないというわけではない。今はそう思います。受け入れてくれる人に目を向けること。そういった人たちを大切にし、恩返しをすること。ちゃんと伝えようとすること。そういった勇気を持ちたいと思っています。
やっぱり人と話せるって幸せだなと思いました。色んな人と話して、色んな人と笑いあいたい。そういう夢に向けてやっと一歩前に進めた気がします。
そしてみなさんにお願いがあります。吃音症の方を見かけても、どうか見守ってあげてください。辛いけど、どもってでも伝えようとしているのです。勇気を振り絞っているのです。みなさんとお話ししたいだけなのです。そのことを少しでも頭の片隅に置いて下さったらこの上ない幸せです。どうかよろしくお願いいたします。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。拙い文章でありますが、心から感謝を。
その際に決めたのは「電子機器を持っていかないこと」、「交通機関を利用しないこと」でした。理由は「自分ができないと思っていることに挑戦してみる」ため。
できないと思っていること。それは「見知らぬ人に積極的に話かける」こと。私はいわゆる「コミュ症」だと思っています。適当な会話内容も思いつかなければ、話しかけるにも話しかけられるにも大体頭が真っ白になる。会話を早く切り上げようとする(これ絶対コミュ症だ)。多分「何か面白いことを話さなきゃいけない」とか「相手に変に思われたらどうしよう」とかそういうことが色々と頭の中を駆け巡るのが原因だと思っています。そうすれば会話に集中できる訳もありません。
そしてそれに輪をかけるように困らせることがあります。それが吃音症です。「どもる」と言った方が通じやすいかもしれません。同じ言葉を繰り返してしまったり(たとえばマジックというのにも「ま、マジック」と言ってしまう)、言葉が出てこない(すっぱいと言いたいのに「すーーーーっぱい」と言ってしまう。伸ばしたいわけでもないのに伸ばしてしまう)。というように、とにかく喋るのが辛いのです。
幼い頃はかなり苦労しました。相手を気遣うなんていうものが幼い頃はないので、同級生にいじられるわけです。何度も笑われたりしました。その度に話すことが怖くなり、どんどん吃音症を隠すように生きるようになりました(喋らないということ)。もちろん友達がいなかったわけではありませんでした。サッカーをしていたので、言葉でなく通じ合えるものがあり、仮にどもったとしても誰も悪く言う友達はいなかったのです。それでも私は吃音症を克服することはできませんでした。
吃音症を治す方法を調べたこともありました。ところが現在吃音症が発生してしまう原因すら解明されておらず、どう治療すればいいのかもわからないそうです。吃音症の本を見つけたとき、僅かに希望を抱いたのですがその希望もすぐに打ち砕かれました。書店でがっくりした気持ちになったのを今でも覚えています。
矛盾するようですが、私は人と話をするのが好きです。それは吃音症だからかもしれません。普通に話して普通に笑いあえる。それが私にとっては夢のようであり、それを与えてくれる人にはこの上ない感謝を覚えるのです。普通にべらべら喋っている光景を見ると「いいなぁ」と今でも思います。(話すのが好きだからこそ吃音症が辛いともいえるかもしれません。
そしてつい先日「嫌われる勇気」を読みました。思ってもみなかったのですが、そこに吃音症の話題があったのです。そこで大きな気づきを得ることになりました。吃音症の人は自分の話し方だけに注意が言ってしまうからこそ、もっとどもってしまう。そしてそれを笑う一部の人だけに目を向けてしまう。そしてそれだけで自分はダメなのだと思ってしまう。と。はっと思わされました。ダメだったのは吃音症のせいじゃない。悪い側面だけ見て全部ダメだと思ってしまう、完璧思考。喋りの場面だけじゃない。どんな時でもそう思ってしまっていた自分の悪い癖が喋りの場面でも出ていただけだったのです。
良い側面にも目を向けてみる。サッカーの仲間が受け入れてくれたように、どれだけどもっても私を受け入れてくれる人がいるということ。彼らと笑いあえるということ。吃音症は「見た目だけで判断する人」を見つけるために与えられたのかもしれない。私を受け入れてくれる人を見つけるために授かったのかもしれない。
そして吃音症を受け入れる勇気。だからこうして書いてみました。今日書いてみる勇気が湧いたのは、出先で私を受け入れてくれる人に何度も巡り合ったからです。
電子機器を持たず、交通機関も使わないとなれば、頼りになるのは「人の親切」しかありません。道を教えてもらうという手段しかありえない。だから私は話すという「できない」ことに挑戦するしかないのです。そういう状況に自分を置いてみたかった。
最初に話しかけるのはとても勇気がいりました。やはり「変に思われないか」「どもったらどうしよう」などと考えてしまうのです。何度も話しかけようと思っては通り過ぎてしまう。そこでまずは話しやすそうな人から話かけるようにしました。それはおじいちゃん・おばあちゃん。おじいちゃんおばあちゃんだと自然に笑顔になるのは知っていたので、そこから攻めてみました。次は60代ぐらいの男性に。そして次は40代ぐらいの女性に。ここら辺から変化を感じました。やっぱり話すのは下手だし、言葉も詰まる。言いたいこともうまく言えない。でも訊けば道はちゃんと教えて下さる。話しかける恐怖は残るものの、勇気が振り絞ることに慣れていく自分に気付きました。
そして次に話しかけたのが運送会社の方。車のお掃除をされていたところでした。道を尋ねるととても親身に道を考えて下さり、果てには「車で近くまで連れて行ってやる」と言って下さったのです。この時自分が自分でないような感覚を覚えました。なぜ自分はこんなことができているんだろう。どうしてこんなに親切にして下さるのだろう。
車に乗せていただいている間、正直何を話せばいいのかわからず結局頭も真っ白になって、上手く喋れませんでした。人の親切にただただ感動していたのもあります。こんなことがあり得るんだと。
去り際にもその方は手を振って下さいました。多分この思い出は一生忘れないでしょう。あの方の顔も。勇気を振り絞って良かった。人に話しかけてよかった。その思いが溢れ出し、車から降りた後思わず小学生のように走り出してました。そして目の前には行きたかった湖が広がっていました。
別に吃音症だから親切にしてもらえることは絶対にないというわけではない。今はそう思います。受け入れてくれる人に目を向けること。そういった人たちを大切にし、恩返しをすること。ちゃんと伝えようとすること。そういった勇気を持ちたいと思っています。
やっぱり人と話せるって幸せだなと思いました。色んな人と話して、色んな人と笑いあいたい。そういう夢に向けてやっと一歩前に進めた気がします。
そしてみなさんにお願いがあります。吃音症の方を見かけても、どうか見守ってあげてください。辛いけど、どもってでも伝えようとしているのです。勇気を振り絞っているのです。みなさんとお話ししたいだけなのです。そのことを少しでも頭の片隅に置いて下さったらこの上ない幸せです。どうかよろしくお願いいたします。
ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。拙い文章でありますが、心から感謝を。
コメント
自分語りになってしまうのですが強く共感できる文章だったので、不躾ながら一つ伝えたくなりコメントさせてもらいます
親切にしてもらえた場合にこの日記のように感謝するのはとても素晴らしいと思います
が、同時に不親切(というより理不尽?暴力的?)にされたときに大いに怒ることも大事だと思います
親切にされたときに感謝、理不尽にされたときに内省、は傍から見ればとても理想的に見えますが理不尽にたいしての内省は自虐的でもあり、それが自分を強く傷つけます。少なくとも私の場合はそうでした。
感謝はとても大切で、快い人生を送るのに必要不可欠だとおもいますが、同時に感謝しようがない相手に対してはどうか強く怒ってください。それは感謝すべき人への感謝をより深くできるものだと自分は思います
伝わるかどうかもわかりませんが、どうしてもこの日記を読んで伝えたく思いました。不愉快でしたらどうぞ消してください。
コメントありがとうございます。
率直に申し上げますと、私は「怒る」ということをしたいと思いません。それは理不尽に対して耐え忍ぶといったような消極的な意味合いではなく、そのようなことをしてくる人に対して時間や気力を使うことが勿体ないと思うからです。相手にしないというような感覚でしょうか。
ただ、これは今の私の価値観であり、いつ変わるかもわかりません。ですから通りすがりさんのご意見も心に留めてさせて頂きます。こうしてコメントを頂けただけでも記事を書いた価値があったと思えます。本当にありがとうございます。
自分の場合、思っていることが言葉に出ない、舌が回らない、自分の発言が相手に伝わったのか不安になると二回、三回と同じことを口にしてしまう、など会話が我ながら不器用だなぁと感じています。
とは言っても、これまでの社会的経験からコミュニケーションなどは楽しいと感じることができるし、周囲の良い仲間にも恵まれていると感じています。
コミュニケーションなどについて真剣に考えられている様子に大変共感いたしました。これからもこちらを拝読させていただきたいと思います
コメントありがとうございます。こうして喋ることに対して悩んでいらっしゃる方がコメントして下さったことを非常に嬉しく思います。勇気を出して記事を書いた価値があったと思えます。簡単には解決できる問題ではないかもしれませんが、お互いにもっともっと楽しくコミュニケーションできるようになると良いですね。がんばりましょう!
また、このダイアリーノートは元々はMagic:the gatheringというカードゲームについて書くためのものでしたので、必ずしも今回のような内容の記事であるとは限りませんが今後ともよろしくお願いいたします。