日記

2018年10月26日 エッセイ
人を傷つけるのは人。
人を癒せるのも人。

傷つくと人を避けようとしたり、自分を守ろうとしてしまうけど、きっとそうじゃない。

誰かに助けを求めることであり、大切な人の存在に気づくタイミングなんだ。

だから傷つくことは無意味じゃない。優しく、強くなれるタイミングなんだ。

そばにいてくれる人を、自分の過ちや弱さを受け入れてくれる人を大切にしたい。

何かが壊れたとしても、壊れずに残るものがある。何かを失っても、何か残っているものがある。その残ったものこそが自分にとってかけがえのないものなんだと思う。

だから失うことを恐れてはいけない。失うことは何かを得ることなんだ。


デッキを選ぶ。どうやってみなさんはデッキを選ぶだろうか。

デッキリストを検索する?結果を残したリストを探す?それとも自分で選ぶ?大体そんなところだろうか。

いずれにしてもデッキを選ぶ際に考えなければならないことがある。

「なにをしたいのか」

これは本当に難しい質問だと思う。大会で勝ちたい?どの大会で?勝つってどれぐらいを指している?優勝?ベスト8?それとも友人に勝ちたい?フライデーで勝ちたい?あるいは、自分の使いたいカードを使いたいだけ?

「どうやって」が加わるともっと面倒になる。どうやって勝ちたいのか。とりあえず勝てればいいのか。自分の作ったリストでないとダメなのか。

こういうことを突き詰めていくと、こういうことを考え出す。

「なぜマジックをやっているのか」

こんなこと考えなくてもいいだろうという人もいるだろう。でもきっと、こういうことを考えないと「強く」はなれないと思う。ぶれない自分にはなれないと思う。

ここでいう強さとは勝つための強さだけを指していない。揺るがない強さだ。誰に何を言われても、はじき返す強さだ。

だからデッキを選ぶときには立ち止まって考えてほしい。

「自分がマジックをやる理由なんなのか」と。
タイトルの通り、翻訳記事をあげました。どうぞよしなに。

【MTG翻訳】白黒”ジャンド” 【モダン】 By Gabriel Nassif
http://ch.nicovideo.jp/jeanne/blomaga/ar1675956#-

ここからは翻訳のあとがきです。

どうやら海外だとモダンが1,2を争うほど人気のフォーマットらしいです。
スタンやレガシーよりも人気だそうで。EDHも人気だということを踏まえると、自分の好きな戦術やカードをお手軽なお値段で遊べる可能性がある、というのがひとつのキーポイントなのかもしれないですね。

今回紹介したデッキも、ちょっと新しい。見たことあるようなないようなデッキでした。でもこういうデッキでも勝てる。そういうのがモダンの魅力だと最近ようやく理解できた気がします(逆に言うと、モダンで勝とうと思うと色んなデッキを相手しなければならないわけですが…)

《暗殺者の戦利品》が新しく登場したことでモダンは大きく変わりそうな予感がしています。

お久しぶりです。
翻訳を再開したので、お知らせいたします。
またお付き合いいただければ幸いです。

ラヴニカのギルドで作るセレズニアトークン By Andrea Mengucci
http://ch.nicovideo.jp/jeanne/blomaga/ar1116105

【レガシー】グリクシスコントロール GPリッチモンドを終えて By Reid Duke
http://ch.nicovideo.jp/jeanne/blomaga/ar1671495

【モダン】《遁走する蒸気族》で1キル By Frank Karsten
http://ch.nicovideo.jp/jeanne/blomaga/ar1672278


こっからは雑記でございます。
最近自転車を買いまして、おぉなるほど!と思ったことがありました。

ご存知だとは思いますが、自転車にはギアがあります。軽くするとひょいひょいっとペダルが回るけどスピードはでない、重くするとその逆になります。

健康のため自転車通勤にしようと思って、奮発して良いものを買ったんです。久しぶりに自転車に乗ったらこんなに面白いものかと思ったんですね。流れていく風景とか、電車じゃ見えなかった道の繋がりとか、街の雰囲気とか。あぁ知らなかった世界がこんなにあったんだ、もったいないことしてたなと思ったのです。

そんなこんなで休日には長時間かけて自転車で出かけるようになりました。行きたいところに自分の足で、相棒と一緒に行く。これが最高なんです。

でもどうしても辛い瞬間はあるんです。例えば坂が多いとか、足がパンパンになるとか。電車だったらこんなことないのに、って思うこともあります。

ただここで登場してくれるのがギアです。とても辛いとき、ギアを軽くするんです。そうすれば力をそこまで必要とせずに進むことができる。止まることもできたけど、これならまだペダルを漕げるというところまでギアを軽くする。スピードはでないけれども、確かに進んではいる。

この事実に気づいたとき「なるほど、人生もこれと同じかもしれない」と思ったのです。日々生きていると、どうしても気分が冴えなかったりするときがありますよね。そういうとき、無理やり今までの量をこなそうとしてしまうことがある、あるいはそうしなくちゃいけないときがあると思います。でももしそこで「これぐらいならできるかな」というところまで”ギア”を落とせばいいんじゃないかと思ったんです。

確かにスピードは遅いかもしれない。でも間違いなく進んではいる。そして気分が戻ってきて、そのギアのスピードに慣れてきたら、また”ギア”を重くすればいい。そしてブンブンと進めばいい。そう思ったんです。

辛いと思ったとき、何かを始めようとするとき、ギアを最大限まで軽くする。そしたらきっと見たこともない風景・世界が広がっていると私は思っています。

長いこと書きましたが、一言で言うなら

「止まるんじゃねぇぞ…」

ってやつです。

こうして私は今日も自転車に乗ろうと思います。


大切なもの

2018年2月16日 エッセイ
「これ欲しい」とか「羨ましい」とか思ったりすることはある。

何かを望むっていうことは悪いことじゃないと思う。
でも「それがもし実現されたら、それで満足する?」って言われると



ってなる。あれやこれやっていう願望がきっとあるんだとは思う。

でももし

「これさえあればいい」っていうものがあったら

人はどれだけ幸せで、どれだけ強くなるんだろうと思う。


惑わされてはいけない。

自分の声を聞かないといけない。

もし何もかも望むものが叶うとして

あなたは、私は何を望むだろうか。

全てを手に入れる力があったとしても

今あるものを守りたいと思うだろうか。


そういうところに本当の幸せはあるんだと思う。

別に病んでるとかそういうのではない…と思う。

ただ疑問を問いかけたい。

なぜだろうと。


全てが実際に叶わないから意味がない問いだというかもしれない

叶わないと思うなら叶わない。

これは理想論ではない。

叶わないと思ってる人間は、行動できないから叶う可能性すらないからだ。

叶うと思う人間にだけ可能性が与えられる。

そして行動は希望を生む。

希望は夢になる。

夢は叶えるものになる。

そうやって思い続ける人が叶えることができるんだと思う。



叶わないと思うのは、そう思いたいからだ。

そう思っていれば行動もしなくて済むし、傷つかないし、失敗しないで済む。

今の楽な場所にいられる。


もし失敗もない、挑戦すればすべてが手に入る。

そんな世界があったとしたら、


何をするだろうか?
この間吃音症の人を見かけました。別に確証があるわけではありません。
ただなんとなく「わかってしまう」のです。

明らかにコミュニケーションを避け、言葉を詰まらせ、言葉を繰り返し、なんとか言葉をひねり出す。一言目を聞いた瞬間に気付きました。

相手には失礼かもしれませんが私はちょっと嬉しかったのです。仲間を見つけたような気がして。本当は「吃音症なんですか?私もそうなんです。大変ですよね。頑張りましょうね!」と言いたかった。

でも本人を見る限り吃音症であることを明らかに受け入れられていないように見えたのです。だから私は我慢をしました。吃音症は自分がその事実にネガティブなイメージを持ってしまうことが症状を悪化させてしまうと言います。だから言わない方がいいだろうと思いました。

そしてその人を見ていたら自分を見ているような気持ちになりました。「あ、吃音症の人ってこんな風に見えるのか」と。確かに言葉は上手く出てないし、お世辞にも聞き取りやすいとは言えない。知らない人からしたら違和感でしかない。

でもこう思いました。「面と向かってコミュニケーションしてくれない方がよっぽど寂しい」と。別にどもってもいい。だから目を見て自分の意見を主張し、相手とコミュニケーションをとれば相手だって理解しようとするし、何より恥ずかしがって目をそらして何も言わないよりかは遥かに好印象になる。勿体ないなと思いました。

そして私は今日同僚に吃音症であることを伝えました。人生で初めてでした。伝えようと思ったのは相手も病気のことについて語ってくれたからです。それを聞いたとき私は理解しようと思いました。力になろうと思いました。変だとかそういうネガティブな感情は一切ありませんでした。多分相手は勇気がいることだったでしょう。理解してもらえるか不安だったかもしれません。でも実際には私は理解をしようとした。もしかしたら病気を深刻にしているのは自分なのかもしれない、その時私はそう思いました。

そして実際に私が吃音症を告白した時、相手は「え?全然気づきませんでした」とおっしゃっていました。自然であると。吃音症の症状は何段階かに分かれており、「ばれない」のは深刻であると言われています。なぜなら吃音を隠そうとして生きているから。向き合うことすらできていない故に、深刻であるのです。

そのことが頭にふっと浮かびました。あぁやっぱり深刻なんだと。でも誰かに吃音症を告白できたこと、そしてそれを伝えたことで今後の相手の理解につながること、自分が吃音症であるために苦手な仕事を変わってもらえること、そういったプラスの側面もありました。それが安心感を生みました。

別に吃音症だからと言って何もかもが終わるわけじゃない。それをカバーするだけの、余りある魅力があればいい。あなたが大切に思っている人はきっとあなたのことも大切に思ってくれている優しさに溢れているはずです。自分の魅力は相手の方がよっぽど詳しいと思っています。だから弱さを見せることは悪じゃない。

そして吃音症であることを今後はどんどん大切な人たちに伝えていきたいと思っています。私は大切な人と面と向かって心をリラックスして、ちゃんと話して笑いあいたい。だからこそ病気のことを伝えたい。

そしてそれを何倍にもして恩返ししたい。そうやって大切な人といつまでも大切に付き合っていけたらどんなに幸せだろうと思います。

正直まだ告白するには怖気づいています。怖いです。どんな反応をされるのか。告白している時もどもってしまったらどうしようと不安で胸がいっぱいになります。でも嫌われる勇気を持って生きていきたい。大切な人をもっともっと大切な人にしていきたい。そう思っています。

吃音症は辛いです。でもコミュニケーションをできる喜びを何よりも強くしてくれた味方でもあります。かなり嫌いだけど、かなり感謝してます。それが私の色になってくれた気さえするのです。
元々内向的な側面が強いからか、恐怖を感じることが多い。

恐怖は自分のコンフォートゾーン(安全領域)から出ようとする、あるいは出て行かされる時に生じる。たとえば転校するなんていったら、きっと誰でも新環境に対して恐怖や不安を覚える。逆に言えば、今まで自分になかったものに巡り合える可能性を秘めているといえる。転校先で親友になる人に会えるかもしれない。恐怖は変化の可能性があることを示してくれているのだ。

生存本能からすれば、変化というのは危険でしかない。なぜなら変化せずとも今まで生きてこられたのだから、わざわざ変化してまでリスクを負う必要性がないからだ。だから人間は変化しようとする時に恐怖を感じるし、何らかの言い訳をしてしまう。「準備ができたらやる」「明日からやる」と。

これは本能的な反応であるから仕方ないし、自分を責めることでもない。だからこそできる対策がある。それは脳が拒否反応を示さない範囲内での「小さな変化」から始めることだ。たとえば運動をしてダイエットしたいというならば、今日から1時間毎日走るなどと大きなことに踏み出すのではなく、一日1回腹筋をするなどといったように。何をバカなことをと思うかもしれないが、変化は更なる変化を欲するようになる。もっとできると思うようになるのだ。そしていずれは「結果的に」大きな変化になっている。

というのが今までの私の学んできたことであり、実際にその効果を体感してきたものである。これは間違いなく効果的な方法である。

ただ今日ふと思ったことがある。恐怖は変化の可能性を示している。でもその先の変化に憧れや夢がある場合、バンジージャンプのように「えいっ!」と恐怖しながら思い切って飛んでしまってもいいのではないかと。小さく変化させれば確実に変化する。でも変わらざるを得ない状況に自分を置けばきっと変われる。恐怖はあるけど変わっていける、憧れに近づくことができる。そういう方法・状況もあるのではないかと。

恐怖は当たり前だが恐ろしいものだ。できれば平穏無事な日々を送っていきたいと思うのも自然だ。でも恐怖の先に自分が望むものがあるならば、思い切って飛び込んでみたい。自分の可能性を見てみたい。恐怖の先にしか楽しさはない。毎日同じ定食屋に入っているのでは世界が広がらない。入ったことのないお店に入ってみたらいつもの定食屋より美味しいとわかるかもしれない。

そして変化することができるとわかれば、きっともっともっと変化・恐怖に対して積極的に飛び込んでいける。大きく変化していける。

恐怖はチャンスだ。怖いと思ったら笑おう。きっと楽しいことが待っている。
恐怖のない日々こそが最も恐ろしいものなのだ。

面白さ

2017年11月18日 日常
最近堀江さんの本を読んでます。

その中にこのようなことが書かれています。
「没頭とは、没頭させてくれるものが先にあるのではない。ひたすらに取り組むからこそ、それが没頭するものに変化する。そして没頭するには、自分で取り組み方を考えることが必要」

深いなぁと思いました。確かに今までハマったものというのは、最初見たときから必ずしも運命的なものを感じていたわけではありません。MTGも最初見たときよくわからんなっていう印象でした。

そして面白さ。自分が没頭する時というのは、明らかに自分で考えている時が多い。とにかく能動的であり行動的である。誰かの指示に従っているのとは正反対。

例えば、昔よくゲームの攻略本を見ながら新作のゲームをやっていた記憶があります。それはただ「ミスなく攻略したい。一切の要素を見逃したくない」という思いから。確かにその願いは達成されるけど、面白いかっていうと全然そんなことなかった。ただ「こなす」だけ。消化するだけ。

人の力を借りることも大事だけど、やっぱり基本は自分で考えること。前のめりになること。繰り返すことによって改善していくこと。多分そういうことが楽しさであり、結果的にはより完成に近いものになれるのではないかなと思います。
今日紙の大会を見学しに行ったんだけど、やっぱりどうしてもMOでは勝てない部分がある。

コミュニケーション。
紙なら上手いプレイヤーがいたら意見を求めることもできる。
ラウンド間に知り合いと話すことができる。
面と向かってのコミュニケーションができる。
マジックに限らない話もできる。

交通費もかかるし時間も選ぶけど、それ相応のリターンはあると思う。
MOでのコミュニティを作ろうとしてたけど、もしかしたらMOの人を紙に参入させることの方が「楽しい」のかもしれない。紙で知り合ってからMOをやれば、MOもリアルのような人間味のあるゲームになり得る。

ネットで知り合って顔も知らない、面識もないじゃ多分うわべな関係になってしまうのかもしれない。リアル⇒MOの方が理想的なのかもしれない。
今日行きたいところを思いついたので、即断で行ってきました。とある湖です。

その際に決めたのは「電子機器を持っていかないこと」、「交通機関を利用しないこと」でした。理由は「自分ができないと思っていることに挑戦してみる」ため。

できないと思っていること。それは「見知らぬ人に積極的に話かける」こと。私はいわゆる「コミュ症」だと思っています。適当な会話内容も思いつかなければ、話しかけるにも話しかけられるにも大体頭が真っ白になる。会話を早く切り上げようとする(これ絶対コミュ症だ)。多分「何か面白いことを話さなきゃいけない」とか「相手に変に思われたらどうしよう」とかそういうことが色々と頭の中を駆け巡るのが原因だと思っています。そうすれば会話に集中できる訳もありません。

そしてそれに輪をかけるように困らせることがあります。それが吃音症です。「どもる」と言った方が通じやすいかもしれません。同じ言葉を繰り返してしまったり(たとえばマジックというのにも「ま、マジック」と言ってしまう)、言葉が出てこない(すっぱいと言いたいのに「すーーーーっぱい」と言ってしまう。伸ばしたいわけでもないのに伸ばしてしまう)。というように、とにかく喋るのが辛いのです。

幼い頃はかなり苦労しました。相手を気遣うなんていうものが幼い頃はないので、同級生にいじられるわけです。何度も笑われたりしました。その度に話すことが怖くなり、どんどん吃音症を隠すように生きるようになりました(喋らないということ)。もちろん友達がいなかったわけではありませんでした。サッカーをしていたので、言葉でなく通じ合えるものがあり、仮にどもったとしても誰も悪く言う友達はいなかったのです。それでも私は吃音症を克服することはできませんでした。

吃音症を治す方法を調べたこともありました。ところが現在吃音症が発生してしまう原因すら解明されておらず、どう治療すればいいのかもわからないそうです。吃音症の本を見つけたとき、僅かに希望を抱いたのですがその希望もすぐに打ち砕かれました。書店でがっくりした気持ちになったのを今でも覚えています。

矛盾するようですが、私は人と話をするのが好きです。それは吃音症だからかもしれません。普通に話して普通に笑いあえる。それが私にとっては夢のようであり、それを与えてくれる人にはこの上ない感謝を覚えるのです。普通にべらべら喋っている光景を見ると「いいなぁ」と今でも思います。(話すのが好きだからこそ吃音症が辛いともいえるかもしれません。

そしてつい先日「嫌われる勇気」を読みました。思ってもみなかったのですが、そこに吃音症の話題があったのです。そこで大きな気づきを得ることになりました。吃音症の人は自分の話し方だけに注意が言ってしまうからこそ、もっとどもってしまう。そしてそれを笑う一部の人だけに目を向けてしまう。そしてそれだけで自分はダメなのだと思ってしまう。と。はっと思わされました。ダメだったのは吃音症のせいじゃない。悪い側面だけ見て全部ダメだと思ってしまう、完璧思考。喋りの場面だけじゃない。どんな時でもそう思ってしまっていた自分の悪い癖が喋りの場面でも出ていただけだったのです。

良い側面にも目を向けてみる。サッカーの仲間が受け入れてくれたように、どれだけどもっても私を受け入れてくれる人がいるということ。彼らと笑いあえるということ。吃音症は「見た目だけで判断する人」を見つけるために与えられたのかもしれない。私を受け入れてくれる人を見つけるために授かったのかもしれない。

そして吃音症を受け入れる勇気。だからこうして書いてみました。今日書いてみる勇気が湧いたのは、出先で私を受け入れてくれる人に何度も巡り合ったからです。

電子機器を持たず、交通機関も使わないとなれば、頼りになるのは「人の親切」しかありません。道を教えてもらうという手段しかありえない。だから私は話すという「できない」ことに挑戦するしかないのです。そういう状況に自分を置いてみたかった。

最初に話しかけるのはとても勇気がいりました。やはり「変に思われないか」「どもったらどうしよう」などと考えてしまうのです。何度も話しかけようと思っては通り過ぎてしまう。そこでまずは話しやすそうな人から話かけるようにしました。それはおじいちゃん・おばあちゃん。おじいちゃんおばあちゃんだと自然に笑顔になるのは知っていたので、そこから攻めてみました。次は60代ぐらいの男性に。そして次は40代ぐらいの女性に。ここら辺から変化を感じました。やっぱり話すのは下手だし、言葉も詰まる。言いたいこともうまく言えない。でも訊けば道はちゃんと教えて下さる。話しかける恐怖は残るものの、勇気が振り絞ることに慣れていく自分に気付きました。

そして次に話しかけたのが運送会社の方。車のお掃除をされていたところでした。道を尋ねるととても親身に道を考えて下さり、果てには「車で近くまで連れて行ってやる」と言って下さったのです。この時自分が自分でないような感覚を覚えました。なぜ自分はこんなことができているんだろう。どうしてこんなに親切にして下さるのだろう。

車に乗せていただいている間、正直何を話せばいいのかわからず結局頭も真っ白になって、上手く喋れませんでした。人の親切にただただ感動していたのもあります。こんなことがあり得るんだと。

去り際にもその方は手を振って下さいました。多分この思い出は一生忘れないでしょう。あの方の顔も。勇気を振り絞って良かった。人に話しかけてよかった。その思いが溢れ出し、車から降りた後思わず小学生のように走り出してました。そして目の前には行きたかった湖が広がっていました。

別に吃音症だから親切にしてもらえることは絶対にないというわけではない。今はそう思います。受け入れてくれる人に目を向けること。そういった人たちを大切にし、恩返しをすること。ちゃんと伝えようとすること。そういった勇気を持ちたいと思っています。

やっぱり人と話せるって幸せだなと思いました。色んな人と話して、色んな人と笑いあいたい。そういう夢に向けてやっと一歩前に進めた気がします。

そしてみなさんにお願いがあります。吃音症の方を見かけても、どうか見守ってあげてください。辛いけど、どもってでも伝えようとしているのです。勇気を振り絞っているのです。みなさんとお話ししたいだけなのです。そのことを少しでも頭の片隅に置いて下さったらこの上ない幸せです。どうかよろしくお願いいたします。

ここまで読んで下さった方、ありがとうございました。拙い文章でありますが、心から感謝を。
昔私は遊戯王オンラインをやっていました。カードを買うには当然課金せねばなりません。特定のカードを手に入れるにはトレードかレンタルをしてもらうしかなく、一人で始めた自分にとってレンタルはもっての外。トレードの種となるカードを手に入れるためにパックを剥く(=課金する)しかなかったのです。

なけなしの資産からトレードをしていたところ、トレードの相手方から「うちのチームに入らないか」というお誘いを頂き、一人でやっていた身からすれば思ってもみなかったチャンス。二つ返事で参加を決めました。

チームに入り一番驚いたのが、そこのチームのリーダーであった方(かつて世界一位にもなった方)がとても素晴らしい人間性をお持ちであったことでした。まだ始めたばかりの私ともデュエルをどんどんしてくれましたし、褒めるところは褒めて下さる、修正すべきところは指摘して下さる。そして何より資産のないチームメイトのためにあらゆるカードをレンタルして下さったのです。試したいデッキ、試したいカードがあっても普通は資産が障壁となり、ゲームへの積極性を損なわせます。その障壁を取り去ってくれたのは本当にありがたいことでしたし、何より「遊戯王が楽しくなった」のです。

このご恩は未だに忘れていません。だからこそMOで私は同じようなことができたらいいなと思っています。あらゆるカードを貸出し、コミュニティを盛り上げる。人と人とを繋げる役割も担う。そんなことができたらどれだけ楽しいんだろうと思います。まだその実現に向けたシステムこそ思考中ですが、いつの日かやってみたいというのが夢です。

資産で躓いてやりたいことができないなんて勿体なさすぎる。一人一人が素晴らしいデッキアイディア・シナジーアイディアを持っているのに、資産のことだけでそれが埋もれてしまう。試す土壌があれば上手くなる人ももっともっと出てくる。そう思っています。

そしてMOは紙にない大きな利点があります。それはレンタルしたとしても「傷がつかない」こと。何回、何百回、何千回と使おうとカードの状態は変わりません。返却された時に状態が悪くなって困った、ということもないのです。しかもトレードのやり取りも簡単。わざわざ出向いてトレードをするなんていう必要もない。

資産がないからデッキが作れない、諦めている。そう思ったことはありませんか?もしもカードが好きなだけ使えたらどれだけ素晴らしいことでしょう。みなさんのまだ見ぬ可能性を見たいと私は思っています。

(気になるのは規約周りですね。レンタルなんてしたら怒られそうな気がします)
昨日、いままでどうしても回してみたかったショーテルを組みました。
総支出は約277チケ(=277ドル、現在のレートでおおよそ31440円ぐらい)。
決して安くはない金額で、カードを買う際にもかなり気合を入れました。

そして組んでみて数戦回した結果…



思っていたのと全然違う。
デカブツを出して爽快感を味わいたかった。
しかし
・ハンデスやカウンターに弱すぎる
・すげーもっさりしてる。とにかく重い。(グリデル使ってたせいもあると思う)
・仮にショーテルが通ったとしても相手が何らかの対処手段を出してくることもある(誘惑まきや忘却の輪など)
・そして妨害がなかったとしても、エムラはまず殴れない(その前に投了される)

と、思い描いていたものが打ち砕かれました(夢を見すぎていたのかも)。

しかし3万以上使ったデッキ…。明日また回してみよう…。と思って、今日も回しましたが、やっぱりどうもしっくりこない。楽しくない。

そこで視点を変えてみました。逆に言えば、理想と違った部分を知ることができたのはデッキを組んだからだ、挑戦したからだ、と考えました。3万という価値があるかどうかはわからないけど、確実に身になったことがあると自信を持って言えます。何をやられると辛いのか、どういう動きなのか。それを知りました。

じゃあもういっそ諦めて別のデッキに移ろう。お金のことだけ考えて嫌々使うのもダメだと思って、botに投げつけてみました。

するとなんと予想以上のチケが返ってくるとのこと。そこで計算してみたのですが、今回実質的に損するのはたったの17.46チケ(1982円ほど)!!つまりたったの2千円ぐらいで気になっていたデッキを回し、学びを得ることができたのです。高いから組むかどうかくすぶっているより遥かに生産的だったと思えました。簡単に言うと2000円でデッキレンタルしてくれたって感じですね。

もちろんデッキを変更する回数が重なっていけば、どんどん損失額は大きくなるでしょうが、色々なデッキを回せるのであれば素晴らしいことだと思います。いつかずっと使いたくなるようなデッキに巡り合えるなら安すぎると思いますね。嫌々使うなんて絶対に御免です。

リアルの紙だとどうなるかわかりませんが、MOならこの手法は結構おすすめできます。みなさんも試してみては?
MTGはやはりコミュニケーションツールであることが一つの魅力。

MOは基本的にどこの誰かも知らない人間と対戦するわけで、その人がどんな人かもわからない・会話も基本的にない(あるとしても良い言葉であることは少ない)から、PCに向かって黙々とやるしかない。

単純に技術の向上を目指すのであればそれで差支えないだろうけど、上手くなりたいと思う前に、やはり楽しいと思えなくてはいけないと思う。継続する意味においても。

MOから始めた私が最近やっと「MTGの面白さ・楽しさ」に気付いたのは、
・知り合いとMTGについて話す
・彼らとMTGをやる
こういう時に笑顔が自然に生まれることに気が付いた。今まではPCに向かって勝敗だけを気にしてやってきたのに、こんな当たり前のことがとても新鮮で、嬉しかった。

MTGの楽しさはMOだけでは知りきることができないと思います。やはり生身の人間と(あるいは彼らとMOで)やるものから学べることはとても多く、MOだけやってる人には是非「リアルMTG」をするチャンスを設けてほしいと思ってます。多分そういう知り合いがいないっていう人も多いのかな、と思ってMTGだけのコミュニティ作れたらいいかなと漠然と思ってたりします。


この間負けへの恐怖について書きましたが、変化が生まれたので書き記しておこうと思います。

結果からいうと、負けへの恐怖は大分なくなりました。やってみたことは以下の通りです。
・スタンでカジュアルに遊び始めた。この間デッキレシピを載せたパンハモニコンデッキ。自分で考えたデッキで、回していて楽しいし、自然と回そうという能動性が生まれた。

・この時点で負けたらどうしようみたいな感覚はなくなっており、ただ楽しい・デッキを改善したいという思いに駆られるようになっている。

・負けると「情けない」というような感覚ではなく「悔しい」という建設的な感情が発生するようになった。多分デッキへの愛着があるからだと思う。そしてまだ改善できる余地が感じられる(メタデッキを真似た場合には、その75枚があたかもベストに思えてしまい、どこをいじるべきなのかもフワフワしてしまう。プレイングだけに原因があるのだと、自分を責めやすくなるのかもしれない)

・そこから流れを汲むように、レガシーもメタデッキであるグリデルを少しずつ回すようになった。この際にも負けへの恐怖は明らかに軽減されている。スタンの流れから、楽しさが頭に残っている状態となっていて、MTGに対してポジティブな印象を持っている。

・ただ、スタンの方が面白い(正確には自分で作ったデッキの方が面白い)。レガシーの場合、カードプールが膨大であり知識も豊富でないと、自分でデッキを作ることは困難。だからこそプールがより狭いスタンダードは魅力的に見える。

といった感じ。多分毎日MTGを少しでもいいからすることが負けの恐怖を減らし、楽しさへと変化していくのではないかと踏んでいる(多分どんなこともそうなのかもしれない)。負けが怖いのは勝利を目的としているからであり、別のことに目的をおけば良いという発想(楽しむという目的)

ということで「カジュアルのすゝめ」でした。思い出してみれば、MOを始めてからカジュアルに遊ぶなんてことしたことなかった気がします。だから苦しくなってしまったのかもしれません。スタンダードはつまらないとよく言われますが、少し試してみてはいかがでしょうか。
負けることが怖い、という人が自分だけではないようなので、率直に思ったことを書いてみます。

【なぜ負けることが怖いのか】
まず自分のMTGへの姿勢をまとめると
①MTGがしたくなる。これは知り合いとの会話であったり、コンテンツを見るなりして刺激されてしたくなります。

②MOを起動する。ここら辺から妙な違和感が出てくる。緊張するような感覚。ゾワゾワしてくる。

③やりたいと思うが、色々なことが頭からバーッと出てきて結局やらない。

多分理解できない人には全く理解できないと思います。ただこれは事実です。
MTGが好きなのにおかしいでしょ?と自分でも思います。

②と③の心理がなぜ起こるのか、たまに考えます。そして上の過程を再現し、自分がなぜプレイすることをためらってしまうのか、調べてみました。
そして③のプレイすることをためらってしまう瞬間に脳内に出てきたことをまとめてみると、
・ミスをしたらどうしよう
・負けたらどうしよう
主にこの2つでした。

【どうしてこういう発想になるのか】
ミスをしたり、負けたくないのはなぜか。それは負けやミスがダサい/情けないと思っているから。なぜダサい/情けないを避けようとするのか。それは自分がすげー奴だと思っているから。あるいはそう思っていたいから。ミスをする、負けるということは自分が上手くないということを証明してしまうことになる。自分が上手いという可能性を残しておくことができない。
そして、一つのミス・敗北がすべてを決してしまうような過度の一般化をしてしまう傾向がある。1つのミス・敗北が自分を「下手くそ」にしてしまうと思ってしまう。そしてその敗者の烙印は二度と消すことができないと思っている。
また、明確なミスは相手にもわかるものであるから、相手にどう思われるかが気になってしまう。恥をかきたくない
練習もほとんどしないので、ミスが出ることは明らかであり、それを無意識に知ってしまっているが故に本当はミス・失敗をすることが目に見えてしまっている。

そしてその自分の実力を直視できないのは、改善していく泥臭い努力をしたくないから。できれば、まるで天才であるかのように何もせずとも勝ちたいと思っている。

多分こんなところだと思います。こんな長いことをわざわざ考えはしませんが、無意識を探るとこんな感じだと思います。

・自分の実力を受け入れられていない。直視したくない。
・人は成長していくんだ、という成長思考がない。
・そして上手くなるために、泥臭い努力もしたくない。しても意味がない。


要約すればこんな感じかなと思います。実際レガシーを初めてプレイした時は一切緊張しませんでした。わくわくしてました。なぜかと言えば、始めたばかりだから下手くそ、できないことばかりに決まっていると知っていて、かつそれを認識し受け入れていたから。そして学びを得ようという姿勢があったから。

自分の実力を客観的に見ようとする勇気。それが始まりなんだと思います。下手で何が悪い。明日には今日の自分より上手くなっていればいい。そういうことかなと。

上手くなっている実感というのは客観的に測定することが難しいので、何か学びを得たら記録していくのが良いのではないかなと思います。

カジュアルをやってみた
楽しむということを第一に今日デッキを組んでみました。
とりあえず組んで回してみることを目標としたので、手元にある資産のみ・Just for funで回すのみという制限を設けました。色々拘りだすと結局やらなくなるので…

【デッキコンセプト】
◎使いたかったティシャーナと気持ち良すぎるパンハモニコンを使う
・パンハモを探す鶴さんを入れて、ファクトもちょっと入れる
・ティシャーナで引いてもマナがないと動けないので、イトリモクをぶち込む
イトリモクとティシャーナの相性自体はとても良い
・川の叱責はフィニッシャーとして

【学び】
・気持ち良さは抜群だった。単純に何度も何度も回したくなる、正に自分に合ったデッキ。

・自分で作ったデッキなので、どこを修正すべきなのかがすぐに見えるし、実践にも移しやすく、フィードバックが早い。変化が露骨に見えるので楽しい。

とりあえず組んでみるという大切さを学んだ。どうしても最初からうまくやろうとして肩に力が入ってしまうけど、とりあえず回した方が良いデッキに近づくのは早いと思う。

・浮き上がる問題点としては、やはり負けたときに勝ちたい欲が出てきて、どうしても丸いカード(=コンセプトとはあまり関係のないカード)に頼りたくなってしまう点。考えられる対処法としては、
①そもそも当たりのデッキの方が少ないんだから、無理だと思ったらパッと諦めてしまい、別のアイディアを試す
②もともとのコンセプトとは少し離れてしまうけれども、デッキとしての強さを優先する

まずは②を試してみようと思います。理由は今のデッキが楽しいため。

とりあえずパンハモニコンが割られやすすぎる環境に涙しました。

気づき

2017年10月25日 日常
レガシーをやってみて気づいたこと。

【良いところ】
・新しいフォーマットなので、新鮮であり学ぶことが多く、刺激も多い。つまり楽しい。同時に難しい。特にレガシーはムズいんじゃないかな。カード一枚一枚の扱いをちょっとミスるとやられる感じがする。やりがいと言える。

・つよいかーどがつかえる。

・レガシーに限ったことではないけど、新しいフォーマットに触れれば交友関係が広まる。

【予想外だったこと】
・デッキの種類こそ多いものの、使ってるカードは大体同じ。死儀礼とかウィルとか思案とか。大きな軸となるカードがあって、方向性を「どっちに少しずらすか」みたいな印象を受ける。思ってるよりカードの採択の幅はないのかもしれない。

・これは前もって考えられたことだったけど、メタがあまり変わらない。新しいデッキもほぼ生まれてこない。なので、よっぽどハマるデッキを見つけないとずーっとレガシーだけをやるっていうのはきついのかもしれない。

【今のところの結論】
・個人的に「交友関係が広まる」ことが最大のメリットであるし、事実そうだったと思っている。これはベリーグッドね。やって大正解だった。となると、一つのフォーマットに拘る(レガシーだけに拘る)のではなく、もっといろいろなフォーマットに挑戦してみたいなという意欲が湧いてきた。

・レガシーでは自分の好みにドンピシャのデッキがまだないので、とりあえず時折プレイしていければいいかなという思い。特にスタンのローテ時期とか。

・まだやってないフォーマットは、EDHなのでそれは視野にいれていきたい。やってる人多いしね。

◎結局のところ、楽しい!という感覚がすべてだと思い始めたので、楽しい!と思えるデッキ・フォーマットに拘っていきたいと思ってます。ある程度勝てないと面白くないし、でも好きなデッキが勝てるデッキとも限らない。それが難しいですね。色んなデッキを触って、自分になじむデッキを見つけるのが第一目標になりそうです。

感謝をすること

2017年10月22日 趣味
最近幸福学というものに関して本を読んでいたりします。その中でこんなことが書いてありました。

幸福は人によって形が違うが、幸福な人々には共通することがある。
①良好な人間関係が存在すること
②親切をする、感謝をすること
③その瞬間に集中すること(今その瞬間を生きていること)

その中でも「感謝する」ということに焦点を当ててみます。
とある実験で、5つの感謝すべきことを書き出した被験者は、日常的なことを書いた被験者に比べ、9週間後の幸福度・健康状態が良かったそうです。感謝というものが幸福に繋がるという証明です。

そこで私も今日書いてみました。本当に些細なことでも良いそうなので、書いてみました。
・今日も生きられたこと
・外は大雨・強風だけど、雨風を凌ぐ家があること
・私の背中に薬を塗ってくれる母がいること(乾燥肌なのでこの時期はやばいのです)
・働けていること。雇ってくれる会社がいること。
・家族や祖父母が今日も生きていてくれたこと

普段は当たり前すぎて意識しませんでしたが、書いてみてわかったのです。こんなに些細だと思っていることを書き出しただけでも、心が温かくなるのだと。そして心が温かくなる、当たり前にある幸せは気づかないだけできっともっともっとあるんだろうと。

こうして文字を書けるのはそれだけの教育を受けて来られたから。みなさんが文字を読めるのも同じです。寝るときに温かい布団があるのも幸せなことです。暖房やこたつがあるのも。こうして今パソコンやスマホを使えていることも。そしてMTGをできることも。話し合える友人がいることも。

探したらきりがないかもしれないですね。私は感謝を書き出している時、周りにいてくれる人への感謝を強く感じました。親切にしたい、与えたいと強く心から思えました。こうして読んで下さっているみなさんにも感謝しています。

感謝の気持ちがあると、自然とそれを言葉にしたくなります。そしてそれは相手への親切でもあり、相手は感謝しようと思ってくれるかもしれません。そうなれば感謝と親切のループが自然と生まれると思っています。

みなさんも是非、感謝を5つ書き出してみてください。どんな小さなことでもOKです。きっと心が温かくなると思います。


ここまで読んで下さってありがとうございました。次回作にご期待ください。

日記

2017年10月20日 読書
この間、ネットを使ってよかったなと思ったことはほとんどないはず、って言われて確かにそうだなと思った。

使ってる時はあれこれして割と楽しんでるんだけど、後々に残るようなものはほとんどない。ネットはあれこれ誘惑されて、元々何をしてたのかわからないほどに遠くまで連れて行かれるけど、じゃあPC開いた時にそこに行くことを目的として開いてたかって言われると絶対そんなことはない。ただ流されるままに流されているだけ。だから時間が経つのも早い。でも何も残らない。あるとしたら後悔だけ?

ネットは便利だし、断絶することは無理だと思うけど、意図して使わないと虚無感を生む・生産性はないということは忘れてはいけないなと思わされました。難しいですけどねぇ、頑張りたいですねぇ。
今日のマッチは青赤デルバー。デッキ自体はレガシー始めた当初に触ったことがあったので、それとなく理解している(つもり)。負け。

・まずゲームプランの立て方が甘い。常にこれ反省してる気がする。
デルバーやヤンパイといったクリーチャーが似通っているため、それとなくレースできるだろうと踏んでいたけど、相手の方が火力が多いし、先手でもあったので明らかにダメージレースするのはミスだった。どっちが攻めでどっちが守りなのか、というよくある議論と同じ。

・デルバーの裏返し
基本的なことでありながら、レガシーの情報量の多さ・不慣れさから、思案やブレストで積むことを忘れてしまいがちである。特にこのマッチアップは相手のデルバーに対する回答になるので裏返しは忘れてはいけない。

・発展の対価へのケア
使っているデッキに基本土地が1枚もないので、基本的に無駄に土地を出さないという方法しかないが、頭には入れておくべき。

・ゲームプラン?
ロングゲームになれば、死儀礼やアンコウがいるこちらの方が多分優位のはず。なので、次回の対戦時にはライフを安全圏におくこと・相手のリソースを削ることに意識を向けてみる。サイド後はArc trail入れるか迷ったけど、ヤンパイもいるので多分こういう時に入れるカードなんだと思う。次回は入れましょう。

色々反省点はあるけど、ゲームプランの立て方というのが一番の課題のように思う。相手のデッキ(=環境のデッキ)がまだ把握しきれていない以上、完璧なものはできないと思うけど、間違ってても良いから常に「どういう形でゲームに勝つのか」というのを問うていきたい。(多分明日には忘れてる

どんなことでもそうだと思うけど、先の展開はこうなるから、じゃあ今やっておいた方が良いことはこれだ、というのは場数を踏んでいかないと難しいと思う。それは仕事であれ、学校の勉強であれ、家事であれ、なんでもそう。慣れてくるから先のことに頭が回るようになるし、もっと「今」が改善されると思う。

そういう意味でも、とにかく挑戦数を重ねることが大切だし、結果には期待しない方が良い。成長思考でいきたい。合言葉は「まだできないだけ」。どうしても大会の参加費やらを考えて、結果を求める・焦るような症状に陥るけど、多分負けただけうまくなると思うし、後々帰ってくると思う。特にレガシーは。

どうでもいいけど、先進国の中で日本人はかなりの守銭奴らしいです。資産を現金預金として持っている割合がぶっちぎりだそうです。お金は1円も減らしたくない、というようなスタンス。うーん私のことかな?カードは売れば大体戻ってくるし使うほど価値が出るので、多少高くても全然気にしないんですが、結果が芳しくないと(もちろん経験というものが手に入るので損ということはないのですが、それには形がないので)あたかも手許からお金が奪われて何も残っていない、というような錯覚に陥る。それを恐れて大会には参加したくない、というわけのわからん状況が発生する。何のためにカードを買ったのかと。

レガシーの初リーグの時はとにかく落ち着いてた。負けるのが当たり前だと良い意味で思っていたし、それのおかげか4-1という結果だった。ただそれが良くなかった。結果に期待をするようになってしまった。

だからこそ、負けたときでも「何かを経験として学んだ、手に入れたのだ」と理解するためにこうやって書き込んでいるのかもしれない。

負けを恐れない方法。常に向上心を保つこと。そういう方法を思考してみたい。


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